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沼田城 ぬまたじょう
(沼田市西倉内町594・平山城・市指定)
沼田城 (沼田市)
(いずれも2026.3撮影)
沼田の地は桜はまだ開花していないが、陽気は春のようだ。来月になれば桜見学で賑わうのだろう。西櫓台には桜の古木もある。写真のやや中央で、左端は再建された鐘楼だ。2代真田信吉が鋳造した、鐘の実物は沼田市の歴史資料館に展示してある。

さて、はじめに沼田城の来し方を簡単に。天文元年(1532年)、沼田氏12代・万鬼斎顕泰(ばんきさい あきやす)が河岸段丘の先端に築造する。北陸から関東への重要な地に築かれた沼田城をめぐっては、上杉、武田、北条との争いが繰り広げられた。
天正8年(1580年)には、武田勝頼に指示された真田昌幸が沼田城を攻略し、翌年に沼田氏を滅亡させた。(沼田氏については、天神城も参照して下さい。)
昌幸は秀吉に旧領を安堵され、天正18年に嫡子の信之が沼田城主となった。5層の天守を建造したのは慶長年間で、関東で5層の天守があったのは、ほかに江戸城だけだ。
この沼田城を彩っているのは、信之に嫁いだ本多忠勝の娘、小松姫の物語である。関ヶ原の戦いで敵になった、昌幸と弟の信繁(幸村)が沼田城を訪れた際に入城を拒んだ話は有名である。

沼田城 (沼田市)いま沼田城は沼田公園として整備され、駐車場では信之と小松姫のキャラ(写真1)が迎えてくれるほか、公園には銅像(写真2)もあった。銅像の台座には岩櫃城と同じように、六文銭を模した、5円と1円が6枚ずつ置かれていた。
写真3は駐車場奥の観光案内所にあった、沼田城の模型。河岸段丘の先端は険しい崖だとわかる。
つぎに往時の面影を留めている遺構を。写真4は西櫓台の石段と石垣。発掘調査で出土した瓦などで、真田時代の遺構といわれる。ここのエドヒガンザクラは樹齢が400年以上。御殿桜といわれ、沼田城の来し方を見つめていたわけだ。
写真5は本丸堀跡で、二ノ丸との間にあった。写真の右は真田時代の石垣である。ちかくの植え込みから出土した瓦は、城が破却されたときに埋められたらしく、上田城の瓦と類似している。なお、天和元年(1681年)に真田氏5代城主伊賀守のときに改易され、翌年に沼田城は破却されている。以降、天守や櫓は再建されていない。
<参考HP>
沼田市>沼田城跡(沼田公園)
<追記>
鐘楼は鐘と同じく真田時代のものを再建したと思っていたが、観光案内所でいただいたパンフには、明治31年ころに役場の裏手に建てられ昭和58年、公園に再建と述べられていた。