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25.和銅遺跡
美の山に登ったとき立ち寄った、高さ5mの「日本通貨発祥の地」と記された記念碑。大きさだけが印象に残っていた。近くに用事があったので、今回はよく観てやろうと、和銅黒谷駅に降り立った。
秩父鉄道は和銅献上から1300年を記念して、駅名を黒谷駅から和銅黒谷駅に改称している。

聖神社(写真1)を過ぎ、道標に案内されて15分ほどで和銅遺跡に着く。以前と同じように和同開珎の記念碑(写真2)が佇んでいて、流れている沢は銅洗堀だ。
和銅山を見上げると和銅露天掘跡が山頂に続いていて、見学用に階段が付けられている。しばらく登ると小さな橋の上から露天掘跡(写真3)を間近に眺められた。

続日本紀、和銅元年(708)正月の条に次の記載がある。
「武蔵国秩父郡より和銅を献る、(中略)武蔵国に自然に成れる和銅(にぎあかがね)いでたりと奏して献れり、(中略)是をもちて天地の神の顕し奉れる瑞の宝に依りて、御世の年号を改め賜ひ換へ賜はく詔りたまふ命をもろもろ聞しめさへと宣る、故、慶雲五年を改めて和銅元年と為て御世の年号と定め賜ふ」
(武蔵国秩父郡で産出の和銅が献上された。日本ではじめての発見だったので、政府は慶事として年号を和銅に改めた)
発見された銅は自然銅で、含有比が90%ちかい良鉱といわれる。

日本ではじめて発行された貨幣が和同開珎で、厚手の古和同と薄手で精密な新和同(写真4・左)がある。そして、鋳造されたところは秩父ではなく、近江国だった。
和同開珎は東洋型貨幣の代表・開元通宝(中国唐代)をモデルにしている。
西洋型は表面と裏面の極印の間に金属板をはさんでハンマーで叩き、東洋型は鋳型に銅などの溶解した材料を流し込んで、冷却後に取り出す方法である。デザインについても、西洋型が肖像なのに東洋型は文字である。
なお、和同開珎は銅銭のほかに、少量の銀銭(写真4・右)が発行されたがまもなく鋳造中止になっている。

1999年には和同開珎より古い富本銭が発見されたが、通貨として流通した記録が見つからず、祭祀用ではないかと考えられている。


(2008年12月 中山)