ホーム | 古墳 | 城郭 | 旧跡ほか |
吉見百穴 よしみひゃくあな (埼玉県吉見町北吉見324・横穴墓群・国指定 ) |
(2018.1撮影、再訪は2024.1撮影) |
ひと昔まえに訪れたときは、古びた観光地だった。いまは立派な入口と埋蔵文化財センターまであって、古墳時代後期の横穴墓群と理解されやすい。 穴の数は100ではなく、219個と倍以上ある。下の写真はとなりの松山城跡から眺めた百穴で、戦国武将たちはコロボックルの住居かと噂していたかも知れない。 岩山では戦時中、地下軍需工場が建設され戦闘機のエンジン部品を製造していたが、本格的生産のまえに終戦。まあ、軍需工場よりはコロボックル伝説のほうが夢があっていい。 埋蔵文化財センターの見学には、吉見百穴の観覧料が必要である。そして、黒岩横穴墓群にちかいが、観覧料のおかげか吉見百穴のほうがはるかに整備されている。 吉見百穴再訪 6年後に吉見百穴の観覧料300円を支払って、吉見町埋蔵文化財センターを見学した(百穴の入口を通らなければ、センターには行けない)。センターのまえには子規の句碑があって、俳人も百穴をまえに古代に思いを馳せていたのだろう。 神の代は かくやありけん 冬籠(ふゆごもり) 今回は時間があるので、百穴の上まで登ってみたら、山々を背景に東松山方面が見渡せた。ヘビも冬籠しているはず…、皆さんも頑張って。(ヒカリゴケは乾燥と低温のためか、確認できなかった。) 横穴墓は横穴式石室と構造が同じで棺座まであるが(右上の写真)、壁面の削られた落書きの多さには驚かされた。 掘削も容易な凝灰質砂岩のせいか、軍需工場は危ない箇所があって、5年ほどまえに閉鎖されてしまった(右下の写真、格子の間から撮影)。 百穴の遺物は埋蔵文化財センターには展示されず、どう見てもお土産屋さんの百穴発掘の家にあった。 明治20年、発掘の際に坪井正五郎を泊めた縁で、いま発掘の家を経営する大澤家に一部が残されたようだ(撮影は禁止)。お土産の熊谷銘菓・五家宝を求めてから、話し好きのご主人に説明していただく。 耳環や大刀などが展示してあり、なかでも横穴墓の閉塞石を見るのははじめての経験だった。そして、陽に焼けた大きな写真には、閉塞石の横に正五郎の姿があった。 <参考HP> 吉見町>吉見百穴/ヒカリゴケ |