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| 難波田城 なんばたじょう (富士見市下南畑・平城) |
![]() (いずれも2025.10撮影) |
水子貝塚に続き、難波田城を訪れた。こちらも公園として整備されているが、公園内に遺構はなにも無い。市が整備できたのは、城跡の3割ほどだ。駐車場のちかく、東門の脇には案内板がある。案内板ほかによる、難波田氏居城の来し方はつぎのとおり。 承久の乱で討ち死にした、金子高範(たかのり)の子孫は、鎌倉幕府から難波田(いまの住所表示は下南畑)の地を得て難波田氏を名乗った。 戦国時代には難波田善銀が活躍するも、河越夜戦で北条氏に敗れる。一族は北条氏に仕え、のちに難波田城は秀吉によって廃城に。江戸期の難波田氏は旗本や加賀藩の家臣になり、家系を継いでいる。 さて、本丸の土塁が宅地のなかに一部残され、スマホのグーグルマップを参考に東門から向かった。 蓮池(行田蓮)、稲穂の垂れる田圃、墓地や石碑を見ながら、古民家ゾーンの端まで来てしまった。土塁はちかくても、フェンスで公園の外に出られなかったのだ。なので、土塁は最後に見学することにして、十五夜の供え物をされた古民家を経て資料館に回った。 そして、駐車場に戻り、フェンス外の道を本丸土塁へ。ショベルカーは残り少ない土塁を崩しそうだが(上段の写真)、この工事用車輌は地権者が駐めているだけで、土地の買い上げ交渉は継続されている。 最後に、4枚組写真の説明を。案内板から撮った縄張り図(右が北)は本丸を本城と表現。以下、東門、追手門、食い違い小口(奥中央に追手門の屋根)である。 <参考HP> 富士見市>難波田城公園(資料館)>施設概要 |