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羽生城 はにゅうじょう (羽生市東5・平城・市指定) |
(いずれも2022.5撮影) |
古城天満宮では、藤の花が咲き始めていた。元慶3年(879年)、藤原秀郷の創建で、境内にはお約束の牛の石像もある。 ここが羽生城の天神廓(曲輪)の推定地だが、境内を見回しても羽生城を偲ぶものは、石碑「史跡羽生城址」と案内板だけだ。城橋と刻まれた欄干(部分)ごときがあっても、往時のものか定かではない。 案内板は3つあり、一部は羽生城にも触れているが、城の立ち位置はわずかな期間に目まぐるしく変わっている。 古河公方配下の広田直繁・木戸忠朝兄弟が、天文の中ごろ(1540年代)に築城。のちに北条の支配を経て、謙信に属する。沼や池に囲まれた天然の要害は謙信の、関東出兵の前線基地になる。 天正2年(1574年)には落城、忍城の支城に。家康の関東入国後の天正18年(1590年)、大久保忠隣(ただちか)が1万石を領して城主となるが慶長19年(1614年)、忠隣の改易に伴い廃城になっている。 案内板の1つにあった羽生古城之図の沼や池は、市街化が進んでいまや痕跡すら無い。ちかくには再建中の曙ブレーキの本社があって、ここも城域だ。障がい者雇用に積極的に取り組んでいると聞いているので、頑張って欲しいものだ。 |