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新田義貞像 にったよしさだぞう
他県の方はご存知ないでしょうが、群馬県民には馴染みの「上毛かるた」。「歴史に名高い新田義貞」は郷土の英雄を称えたものだ。かるたは手元にあるのに、著作権の関係から掲載できない。ネットでは著作権無視で流布しているので、検索してみて。
さて、義貞である。1333年(元弘3年)、後醍醐天皇に応じて地元の生品(いくしな)神社にて挙兵。小手指ヶ原(こてさしがはら、所沢市)、分倍河原(ぶばいがわら、府中市)で北条軍を破って、鎌倉へ攻め入って幕府を滅亡させた。
この2週間の動きが義貞の名を後世に残した。だが、北朝の足利尊氏との抗争に敗れて、1338年(延元3年)に越前の藤島で戦死する。諸説あるが40歳まえの若さだ。
<参考HP>
太田市>新田義貞の活躍

太田駅
 (太田市東本町16-1
新田義貞像(太田駅北口)
(2017.1撮影)
義貞の地元、東武伊勢崎線・太田駅北口にある。駅前の雑踏が目障りだが、背景にあるスバルの群馬製作所本工場と併せて撮った。義貞の故郷はいまやスバルの城下町である。
兜を持って義貞に従っているのは家来のようでも、弟の脇屋義助(よしすけ)で生品神社での決起の場面としたい。そして、新田氏の旗印である「大中黒」(おおなかぐろ)がそえられている。

新田荘歴史資料館(太田市世良田町3113-9)
新田義貞像(新田荘歴史資料館まえ、太田市)
(2018.3撮影) 
はじめは後醍醐天皇から刀を賜っている場面を想像して、台座に波があるのに気づいた。義貞と波といえば「太平記」にある、鎌倉攻めのとき義貞が稲村ヶ崎に刀を投げたら、海の水が引いたという有名な場面ではないか。
これはまだ刀を持っているから、投げ入れるまえに祈っているところか。上毛かるたの絵札も同じような図柄である。

分倍河原駅府中市片町2丁目
新田義貞像(分倍河原駅まえ、府中市) 
(2018.4撮影)
JR南武線と京王線が乗り入れる分倍河原駅前のロータリーにある。この像も波があり、義貞と波はお約束ごとか。
馬上の刀を振り上げる勇ましい姿は、海の水が引いたので鎌倉に攻め入っている場面か。それとも、多摩川を渡っているところか。ここは分倍河原なので後者と思われるが、いずれにしろ像の向きは鎌倉である。そして、竿立ちの像としては波があるおかげで安定している。(波ではなく土煙とする向きもあるが、義貞には波が似合う。)

生品神社太田市新田市野井町645
 新田義貞像(生品神社、太田市)
(いずれも2019.11撮影)
盗難により台座と波頭だけの新田義貞像(生品神社、太田市)挙兵の地であるこの生品神社の像をさきに掲載すべきだが、見学日の順なので悪しからず。
平成24年、駐車場付近に新しく建てられたのは、2年まえ境内にあった以前の像が波頭と台座を残して盗難に遭ったからだ(左の写真)。上の写真の、後ろにある碑には、再建委員会の文字が見える。
ポーズは新田荘歴史資料館のものと同じでも、あの波頭が無いのは残念だ。 

新田庁舎太田市新田金井町29
 新田義貞像(新田庁舎、太田市)
(2022.9撮影)
新田庁舎にも義貞像があると聞き及んで、ジョイフル本田への買い物ついでに訪れた。
義貞が刀を振り下ろした像は、力強さを表わすためだろうが、ちょっと違和感がある。日本の武士と違って、たとえばチンギスハンのような、大陸系の出で立ちなのだ。刀も太くて、日本刀とは違う曲がり方だ。背面に回れば、弓のほか鞘を背負っている(写真の右下)。そして、銘板には個人の造立と述べられていた。

<番外>
伝新田義貞倚像 (太田市世良田町3201−6 総持寺・市指定)
総持寺の伝新田義貞倚像(太田市) (2020.10撮影)
説明プレートによれば、桜材を使った一木造りの神像。憤怒の表情から、義貞像と伝えられているという。
「伝」が気になるが、下記の<参考HP>も参照して下さい。鎌倉時代の作で、義貞と同じ時代の空気を吸っていたのかも知れない。
総持寺蔵でも、写真を撮ったのは、借用している群馬県立歴史博物館(高崎市)だ。倚像(いぞう)とは、椅子などに腰掛けた像である。
<参考HP>
太田市>総持寺の木造伝新田義貞倚像