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44.箕田古墳群 |
JR高崎線の北鴻巣駅で下りて、さきたま緑道※1を北に向かえば1時間でさきたま古墳※2だ。でも、南にわずか10分ほどのところに箕田(みだ)古墳群がある。古墳時代も後半になれば、箕田古墳群のように小規模な古墳が集まって築造されるようになる。 さて、箕田古墳群については、2号墳にある案内板の解説がわかりやすいので、そのまま転載しよう。 |
鴻巣市指定文化財(史跡) 昭和四十五年三月一〇日指定 箕田古墳群 箕田古墳群は大宮台地の北端部、通称箕田台地と呼ばれる台地上にある。 古墳群は、標高十六~十八メートルの地点に、幅約六〇〇メートル、長さ一〇〇〇メートルの広い範囲に亘って散在している。 古墳の分布から、宮前支群、富士山支群、龍泉寺支群、稲荷腰支群、追分支群の五つに分けられる。 これまでに九基の古墳の所在が知られているものの、現在は一、三号墳が消滅しているため、わすかに七基の古墳が残っているのみである。 周辺付近一帯から埴輪片が採集される事実からすると往時は相当数の古墳が存在していたものと思われ、鴻巣市では生出塚古墳群と並んで最も多くの古墳が密集していた地域である。 『新編武蔵風土記稿』の記述が古墳群に関する最古のものである。 昭和三年に柴田常恵氏によって七号墳の発掘調査が科学的調査の最初で、続けて二、三、九号墳( 宮登古墳 )で実施されている。 須恵器有蓋高坏・𤭯(はそう)※3 ・埴輪・金環・切子玉・丸玉・鉄鏃等が発見されているが、九号墳は埴輪を伴っていなかったことが調査により明らかとなっている。 これらの発掘調査の成果によって、箕田古墳群は、六世紀初頭から七世紀中葉に至るまでの約一五〇年間に亘って築造されたことが判明している。 |
1号墳は1978年に土の採取により、3号墳は1964年に武蔵水路※4の建設により消滅していて、現存する箕田古墳群は7つ。すべてを見てもわずか数時間だ。2号墳から順に回るとして、まずちかくの満願寺を目指そう。 さいごの箕田9号墳(宮登古墳)は箕田の名がつくが、宮前地区にある。宮登神社入口のバス停からは、フラワー号(鴻巣市のコミュニティバス)で駅まで戻れる。バスの時刻がわかっていれば、9号墳から逆に回ったほうがよいでしょう。 つぎに掲げる地図も2号墳の案内板から撮ったもので、『鴻巣市史』の通史編1(2000年)、資料編1(1989年)のいずれにも掲載されている古墳分布図をもとに作成したと思われる。箕田古墳群についていえば、どういう訳か資料編1のほうがかなり詳細に記述してある。 そして、この『鴻巣市史』では気になる点がいくつかある。通史編1では、11号墳が箕田古墳群ではもっとも早く築かれ、べったら塚古墳(後述)がもっとも北に位置していると述べているが、案内板の解説や地図は9号墳までで、べったら塚古墳には触れていない。そして、資料編1では、5号墳については埴輪片の未出土などを指摘して非古墳説も紹介している。 ほかに参考資料として、塩野博『埼玉の古墳 北足立・入間』(さきたま出版会、2004年)がある。 箕田古墳群は鳥居があったり、墳頂に祠があったりして昔から神聖な場所であったのだろう。なのに、小規模とはいえ文化財である2つの古墳が消滅したのは残念だ。 さて、箕田古墳群は住宅地のなかにあるので、見学は近隣住民への配慮が必要だ。個人宅の庭にも古墳があり、無断で立ち入らないようにしたい。また、夏場はヤブ蚊への対策が必要で、7月に訪れたときには5箇所も刺されてしまった。 <番外>べったら塚古墳 7つの古墳を見終わって物足りない方は箕田古墳群の北西にある、べったら塚古墳にぜひ立ち寄ってみよう。 「べったら」という名前も面白いが、三等三角点や水準点もあって興味深く、北鴻巣駅からはわずか5分だ。 ※1 さきたま緑道:武蔵水路に沿って、北鴻巣駅前とさきたま古墳を結ぶ4.5キロの歩道。自転車道を併設し、田園風景のなかをウォーキングやランニングを楽しむ姿が見受けられる。 ※2 さきたま古墳:稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣が有名だ。大型古墳が9つ、博物館では鉄剣のほかヒスイの勾玉や鏡などの国宝を展示、地元では世界遺産登録を願う声もある。残念ながら、箕田古墳群とはスケールがちがう。 ※3 𤭯(はそう): 須恵器の一器種で、胴部に小さな孔をあけた壺。 ※4 武蔵水路:利根川から荒川へ水を援助する14.5キロの水路で、1967年に完成した。そして、老朽化していた水路の改築が昨年3月におわり、随所に案内板を設置。河川との交差を回避する逆サイフォンは見どころだ。 (2017年8月 中山) |