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4.興安丸
1945年8月15日は非常に暑い日だった。
 私は朝鮮半島京城(現ソウル)で暮らしていた。その日も父親はいつものように出勤し、家には祖母、母親と私を含む5人の兄弟姉妹がいた。正午近くに母からみんなラヂオの前に集まるようにと言われ、何事かと居間で待機していた。やがて天皇の玉音放送が始まった。むずかしい用語や表現の連続だったが、戦争に敗れたということは子供心にも分かった。祖母と母は格別驚いたふうでもなく、取り乱した様子などは全く見せずにただ淡々と聴いていた。

 思えば神州不滅、戦争に負けるはずがないと信じ込み、44年度に関釜連絡船「興安丸」で朝鮮へ引っ越して行ったのだった。いま考えると大変危険な航海を敢行したことになるが、運を天に任せていたとしか言いようがあるまい。

 大戦末期の京城での生活は、比較的穏やかなものだったが、担任教師が赤紙(召集令状)1枚で突如出征してしまうなど、戦争の厳しさは学童心理にももろに響いていた。45年度は敗戦を予期してのことか理由はよく分からなかったが、例年より早く夏休みに入った。これといった宿題もなく、10才の私は自宅と周辺のごく限られた地域で所在ない毎日を送っていた。そして8月15日を迎えたのだった。

 その日から私たちの生活態様は明らかに変わった。変えざるを得なかった。史上初めて敗戦国民となり、連合国の占領統治下に置かれることになったのだから。前日までのような自由な外出は到底できなくなり、ひっそりと自宅に籠もって帰国の日を待つ。あちこちでいろいろな穏やかでない出来事が発生するのを耳にした。それらの情報を参考にしながら両親を中心に我が身を守ることに専念する日々だった。
興安丸
やがて帰国の日がやって来た。
 幸いにも敗戦の翌月という早期に釜山から再びあの興安丸に乗り込むこととなった。残務処理に当たる父ひとりを残して、一家は山口県仙崎港に帰ってきた。埠頭の大きい下関港に着岸できなかったため、本船から艀に移っておっかなびっくりの上陸だったが、とにかく一同無事、本州の土を踏めたのは本当に有難かった。

 各地で鉄道は破壊されていて、列車の運行は混乱を極めていた。両親の郷里、岡山に向かおうにも直行便はなかった。ようやく乗った汽車は広島でストップし、私たちは広島駅構内に長時間座り込んで岡山への列車を待たねばならなかった。

 原爆投下から約1カ月経っただけの広島の様子を目の当たりにして声も出なかった。「この地にはこれから少なくとも50年は草木も生えない。人が住むなどできないだろう」といった言葉が噂話として伝えられた。広島の人たちの惨状を直接見て、身体ひとつだけの着の身着のままではあるが、元気に引き揚げて来られた私たちは、何と幸せなのだろうと心底思ったのだった。

 周りの人々の支えにも恵まれて岡山の借家に落ち着いた私たちは、しばらく後に無事帰還した父を迎えて苦しいながらも張りのある新生活へと歩を進めることとなった。

あれから50有余年。
 新世紀を実体験する今日まで平凡だがまともに生きてきたと自負している。いつも「天、地、人」の多くの恩恵に感謝しながら皆で「健康、安全、平和」を維持できるよう日々努めよう。

(2002年12月 石井)