ホーム | 編集職人 | つぎのコラム |
32.3.11行状記 (東日本大震災の記憶) |
2011年3月11日の午後、私は自宅の居間で憩っていた。突如鉄筋コンクリート3階建てが猛然と揺れ始めた。これは1988年に住んで居た「いわき市小名浜」で経験した震度5くらいは充分あるなと思った途端、KYT(危険予知トレーニング)が頭に浮かび、自然体でデスクの下に入り込んでいた。丁度買い物から帰って隣室に居た妻も無事だった。有難い有難い。 この日に備え、家具倒壊防止のための補強・接着などを小まめに行なった効果は新たかで、やれやれだが、パーフェクトでは無かった。仏壇その物はしっかりしていたが、位牌が団体で飛び出して来た。ガラスケースに飾った美麗な日本人形は、カーペットに落下、木っ端微塵のガラス片清掃を余儀無くされた。庭では、亡両親が大切に扱っていた石灯篭がものの見事にこけちゃった。後日「港区役所」が被災品の無償処分を受付けると言うので尋ねたら「廃棄処理困難物」だから駄目との答え。仕方が無い。 私の社会人生活スタートの地、岩手県釜石市も小名浜勤務時代に契約先として通った福島原発も太平洋沿岸各地と共にコテンパンに遣られた。励まし慰める言葉が見付からない。 帰宅難民、輪番停電等々東京地区も非常時だが、大災害現地を思えば何の此れしきではないか。「贅沢は敵だ」、「欲しがりません。勝つまでは」「一億火の玉」…古いなあの揶揄を覚悟で…1940年代に毎日唱えた此れらの標語の精神を復興実践へ繋げていこう! (石井) 当日は鳥居もないのに大鳥居というところで取材をしていまして、無事仕事を終えて、川崎に帰りJR駅に入ろうとしたとき、近くの人たちが皆空を見上げていました。 何だろう、何かイベントでもあるのかなと、私も見上げると、クラクラッと眩暈がしたような気が。実は私の頭がおかしくなったのではなく、ビルがゆっくりと左右に揺れていたのです。どうも地面も揺れていたらしい。 それからは悲惨の一言。 駅は人でいっぱいで、商店からは皆追い出されていました。余震が来るといけないからということらしいです。南武線が止まって、バス乗り場に行くと長蛇の列。仕方ないので、少し様子を見ようと川崎散歩。色々と震災の現場を見てまわりました。開いている店を見つけてうどんを食べて、駅に帰ると、5時。人はさらに増えて、駅の改札にはシャッターが下りていました。 バス乗り場もさらに混雑していましたが、行けるところまで行ってやろうと、武蔵小杉行きを選択。1時間待ってようやくバスに乗ることはできたのでしたが、すごい渋滞で、2時間近くたっても一向に着きません。車内はパニック状態になりそうな不穏な雰囲気。 平間を過ぎたとき、運転手がついに、「皆さん歩いたほうが早いようです。ご希望の方は降りて歩いてください」。殆どの人が降りて歩き始めました。武蔵小杉行きのバスを2台追い越しました。必死で歩いてようやく武蔵小杉に着きましたが、そこでもバスとタクシーに人がいっぱい。 ついに溝の口を目指して歩くことにしました。溝の口でも同様で、ここで昔の山男時代の気迫が甦り、よし、府中まで歩いてやるとやけくそになりました。 色々道に迷いながら府中街道を探し当て、昔住んでいた菅北浦についたとき、足が痛くて、もう駄目だ、是政橋を渡って府中に行くまでもたないのではないかと、弱気になりました。 それでも、歩くしかないので、とぼとぼ京王線稲田堤駅の前に差し掛かったとき、高架の上を電車が走っていたのです。急いで駅に行って、駅員さんに府中までいけますかと聞くと、大丈夫とのこと。地獄に仏でした。 府中駅に着くと、また根性を出して、西国分寺まで歩き、家に到着したのは夜中の1時半でした。あまりに大変だったので、花粉症も喘息も吹っ飛びました。 翌日テレビを見ると、私の苦労などとは比較にならない被害状況ですね。 私のことはダラダラ書きましたが、言う言葉もありません。(宍戸) 「いけふくろう」の石像があるJR池袋駅北口。自動改札機に切符を入れ、電光掲示板を見上げて発車時刻を確認している、その時だった。 頭が揺れて掲示板の文字が霞んだように見えた。なんとなく浮遊感もある。周囲を確認したら、オバサンがしゃがみ込み、オジサンは呆けて立ちすくんでいる。他人の行動を見て、これは外部環境に大きな変化が起こっているとようやく理解できた。 「ただ今、地震が発生。近くの柱に掴まるように」。やや緊張気味の、高揚した駅のアナウンス。自動精算機近くの柱にしがみつくも、思い出したのはニュージーランドの地震だ。ここは地下、上には巨大なコンクリの塊がある。 地震と分かったら、恐怖心が湧いてきた。アナウンスの声は段々大きくなる。ホームのほうが落下物も少ないのではと判断し、手摺りにしがみつく若者たちを尻目に階段を上がると、埼京線を待っていたサラリーマンが新聞を拡げたままフリーズしていた。そして、反対ホームでは成田エクスプレスが左右に大きく、ゆっくり揺れていた。 ホームを歩き通し、奧の階段を駆け上がる。いま考えると、なぜ歩き続けていたのか分からない。でも、2階通路にある改札の駅員に、「駅から出てもこの切符は有効か」と確認したのは、なんとも理性的な行動ではないか。改札まえの広場には東武百貨店からも百名ほど溢れ出ていて、携帯でこの事態を報告している者もいる。コチラも取り出すがさすがソフトバンク、もう通じなかった。 駅員は「池袋駅では震度5」と叫んで、構内から出るように促していた。これでは電車はしばらく動かないし、居場所もないので事務所に戻ることにした。 ビルから避難したらしい十数人の集団と擦れ違ったが、半数がヘルメットを被っていた。事務所に着いたら、また激しく揺れ始めた。余震だ、目の前の首都高は倒れないだろうか。脱出のためにドアを全開にした。電気、水道は大丈夫だったが、ガスは自動的に停止していた。携帯は通話できないが、メールは届いた。 夕方になってJRは今日動かないとラジオが告げて、帰宅難民の資格を得た。そして、震源は東京周辺だと思っていたが、宮城沖と知って驚かされた。人生最高の揺れを経験したのに、彼の地はこれ以上とは…。夜中にあまりの寒さに目が覚め、ようやく通じたネットでガスの自動停止解除の操作を確認する。 翌日の土曜は通常1時間のところ、4時間かけて超満員電車で帰宅した。駅では入場が制限され、電車は速度制限があるうえ、踏切を時間をかけて通過していたからだ。(中山) |