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元島名将軍塚古墳 
もとしまなしょうぐんづかこふん

(高崎市元島名町将軍塚163-1ほか・前方後方墳・市指定)
元島名将軍塚古墳、実測図(高崎市)
(壺形土器2021.10、ほか2020.10撮影)
道路工事をしていたせいか道を1本、間違えて入り込んだら民家の庭だった。島名神社の扁額を掲げた白い鳥居があれば、元島名将軍塚古墳に間違いない。別名、京ケ島村1号古墳で、鳥居のちかくには案内板と標柱が控えている。

さきに、写真の説明を。上段の写真は後方部から前方部を眺めた様子で、後方部の墳丘が大きく抉れている。まるで、凹んだ登山道だ。そして、展望が利くおかげか、三等三角点が設置されている。
写真左下の実測図は案内板から撮って、古墳写真の向きに合わせるため、上下を入れ替え方位を加えてある。
下段の写真は全景を撮るために、鳥居とは反対の田んぼ側から撮ったが、こちらは広々していて気持ちがよい。右が後方部、左が神社のある前方部である。

井野川と関越道に挟まれたこの前方後方墳は、全長が96mもある。そして、白壁の神社がある前方部の高さ4.7mに対して、後方部は意外に高く8.6m。築造は4世紀後半だ。
元島名将軍塚古墳の底部穿孔二重口縁壺(高崎市)明治44年、前方部の一部を削って神社を建設するときに、埋葬施設が発見されている。竪穴系(粘土槨)で、人骨、大刀などのほか、獣形鏡が出土した。
(案内板では埋葬施設は後方部から発見されたとしているが、神社は前方部に建てられているので理解しづらい。ただ、後方部の抉られた箇所が悩ましい。高崎市歴史民俗資料館でいただいたパンフでは、後方部発見の出所は、郡会議員などを勤めた地元の名士の、関亀齢の報告である。)
また、昭和55年度の発掘調査で、周堀から出土したのは、底部に孔の開いている多くの壺形土器(底部穿孔二重口縁壺)で、一部が歴史民俗資料館に展示してある。右上の写真は上から、右下は底部を横から撮ったもの。
<参考HP>
高崎市>将軍塚古墳 附 周濠出土の底部穿孔壺型土器等一括資料