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大類古墳群 おおるいこふんぐん (埼玉県毛呂山町大類・前方後円墳2基、円墳40基・1号墳は町指定) |
(いずれも2018.11撮影) (地図は国土地理院の電子地形図に文字を追記) |
道路沿いにあった大類1号墳を見落として、はじめに2号墳へ。2号墳→十社神社→1号墳の順で回ったが、道は狭くても行き止まりではなかった(現地に行き止まりの案内あり)。駄文は1号墳から触れたい。 大類1号墳(上の写真)は別名、苦林古墳(にがばやしこふん)で、現存23mの、古墳時代後期の築造だ。墳頂からは間近に2号墳を望める。案内板には苦林古墳、苦林野古戦場、苦林野合戦供養塔と、3つの表題があった。 まず、苦林古墳について。毛呂山町から坂戸市にかけて越辺川(おっぺがわ)右岸(東側)の台地に100基以上の古墳があって、苦林古墳群と呼ばれているという。そして、毛呂山町のHPでは、 大類古墳群には42基が確認されていると。苦林古墳群はこの大類古墳群と塚原古墳群(坂戸市)の総称だ。 つぎに、苦林野古戦場と合戦供養塔について。『太平記』の第三十九に「…苦林野にぞ著にける。小塚の上に打上て鎌倉殿の御陣を見渡せば…」と描かれた小塚は、苦林古墳らしい。貞治2年(1363年、南朝では正平18年)に、鎌倉公方の足利基氏と越後守護代の芳賀禅可の軍勢が戦ったのが苦林野合戦だ。 そして、死者の供養のため、苦林野合戦供養塔(十一面観音像、上の写真の右上)が江戸後期に建てられた。 大類2号墳(左上の写真)は前方後円墳らしい形が残っていて、墳丘の一部に河原石がまとまって見えた。2号墳後方の木々が、十社神社に向かう道を示している。 十社神社(左下の写真)周辺には、円墳と思われる土の盛り上がりがいくつもあったが、案内板の類はなかった。 <参考HP> 毛呂山町>十社神社にまつわる伝説 |