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野原古墳群 のはらこふんぐん (熊谷市野原・前方後円墳1基、円墳22基) |
(埴輪モニュメント2018.12、ほか2018.11撮影) |
踊る埴輪で知られる野原古墳群。立正大学熊谷キャンパスの南西に、30基ほどあったという。八幡神社(上の写真)の後背地から西方が古墳群で、東隣には野原西部集会所がある。車はあまり通らず人影も見えない…、静かなところだ。 案内板は神社について述べたあと、古墳群について次のように触れている。 「有名な踊るはにわ(昭和五年出土、国立博物館蔵)が出土した前方後円墳も神社西方にあったが、現在は開墾されて桑畑となり、その跡をとどめていない」と。桑畑のためか全長40m、高さ5mの前方後円墳が消滅したのは昭和30年代後半だ。 現地では踊る埴輪について触れたものはこの一文だけで、写真もなかった。踊っているのではなく、馬を引いている姿だとしても、表情はなんとなく愛くるしい。男女ペアで男子のほうが小さく、親子かも知れない(男子57cm、女子64cmで、意外に大きい)。 ただ、実際には、小さい埴輪は男子の髪型である美豆良(みずら)を結っているので男子とわかるが、大きい埴輪は性別がわかる特徴がないという。美豆良は髪をセンターで分けて、耳のあたりで丸く束ねるヘアスタイル。 後背地に行ってみれば、落ちた枝や枯れ葉が積もって歩きにくい。土が盛り上がっているところ(右上の小さな写真参照)はあるが、古墳だという確証はなにもなかった。 そして、踊る埴輪が出土した古墳跡を確認に西方へ向かった。神社の西隣は養蜂場でたくさんの巣箱が置かれていた。さらに西方は雑木、背の高い草などが待ち構えて、桑畑は見つからなかった。消失した古墳跡を見つける気持ちの余裕は、もうなかった。 後日、踊る埴輪のモニュメントが押切橋南公園に設置されていると知り、近くを通った折に寄ってみた。四阿とベンチがあっても道路沿いのせいか、誰もいない。 この小さな公園は押切橋の完成を記念したものというが、橋と埴輪の関係がよくわからない。しかも、埴輪が発見された野原古墳群とは直線で4キロちかくも離れている。 <参考HP> (旧)江南町教育委員会>野原古墳群(PDF) 熊谷デジタルミュージアム>古墳副葬品 |