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白井城 しろいじょう
渋川市白井581・平山城・市指定)



(いずれも2017.7撮影)
本丸ちかくには駐車スペースはあるが、道の駅「こもち」に駐めて白井宿を見学しながら訪れたらよいでしょう。いま本丸跡(上の写真、城跡というより古墳のようだ)は残っていても、ニノ丸や三ノ丸は畑になっている。ただ、石垣、堀、土塁はあるので、おおよその縄張りはわかる(下の写真)。
そして、白井城は群馬県民にもあまり知られていないので以下、現地にあった案内文を紹介。長文なので興味のある方はお読み下さい。(なお、子持村は渋川市と合併している。)

「白井城址案内板
 白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に自然の要害を利用して築かれた城である。全体が三角形に近い構造で、城の中心である本丸は吾妻川沿いにあって西側は断崖に面しており、それ以外の方角は高さ三〜四メートルの土塁に囲まれている。北側には枡形門があり、太田道灌が指導したとの伝承が残る石垣が現存する。本丸を出て深い堀を土橋で渡ると北へニノ丸・三ノ丸と続き、その間にも堀が残っている。三ノ丸の外側には北の守りとして北郭・金比羅郭があり、本丸の南東にはささ郭・南郭・新郭が連なっている。さらに城域の北と東には、それぞれ北遠構・東遠構の堀があって総郭(城下)を囲む構造になっていた。 なお城の護りの一部として、玄棟院(曹洞宗)・源空寺(浄土宗)をはじめとする大小の寺院が周囲に配置されている。また白井城の南東には仁居谷城があり、堀跡等も確認されていて両者の関係が注目される。
 いつ頃築かれたかは諸説あるが、一五世紀中頃に関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった長尾景仲(昌賢)によって築かれたと考えられる。景仲は月江正文禅師を開山とする雙林寺(曹洞宗)や、「白井の聖堂」と呼ばれる学問所を開いたことでも知られている。その子孫も白井城やその周辺をめぐる戦国の攻防の中にそれぞれの名を残したが、天正一八年(一五九〇 )に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に攻略されて開城し、戦国の城としての役割を終えた。その後は徳川家康の関東入りにしたがい本多広孝・康重が城主(二万石、のち五万石)となり、この頃に現在の姿に整備されたと考えられる。康重の岡崎移封後は戸田康長・井伊直孝・西尾忠永・本多紀貞と続くが、寛永元年(一六二四)紀貞の病没とともに廃城となった。

 これ以後の経過は明らかでないが、少なくとも明治時代以降は農地化されていたと思われ、昭和四〇年代の土地改良事業においても大幅な地形の改変はなく、堀や土塁など城としての地形が良く残っている。なお、平成一六年三月には本丸部分が子持村の史跡に指定され、保存と活用がはかられていくことになった。     
                     子持村教育委員会」
<参考HP>
渋川市>白井城址